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イベントレポート2026.09.20

迷わせないために、1000本の矢印を立てる。|MEROS × 信越五岳トレイルランニングレース

「信越五岳は走りやすい」。
誰もがそう言うし、自分でもコースのあちこちを走ったことはあるので体感はしている。

けれど今回、その言葉の本当の意味を改めて実感した。

走りやすい山なのではない。

走りやすくなるまで、人の手で途方もなく丁寧につくられているのだ。
MEROSとして、トレイルランニング大会の救護や安全管理に携わる機会が増えてきた。

大会ごとにコースも規模も違う。当然、安全に対する考え方もそれぞれ違う。

だから最近は、救護体制そのものと同じくらい、
「そもそも事故を起こさない大会とは、どんな大会なのだろう」と考えるようになった。

そんな中、信越五岳トレイルランニングレースのコース整備に、二日間参加する機会をいただいた。

レースプロデューサーの石川弘樹さんとは、以前からの友人でもある。
これまでも山の中で、ある時は大海原で釣りをしながら、さまざまな安全やら文化やらトレイルについての話をしてきた。

今回、実際に一緒に山へ入り、草を刈り、
杭を運び、矢印看板を設置したことで、これまでとはまったく違う景色が見えてきた。

奥多摩の山で

「走れるコース」だと思っていた

信越五岳について、以前からよく聞いていた言葉がある。

「信越五岳は、走れる」

私も、林道や走りやすいトレイルが多く、スピードの出る高速コースなのだと思っていた。
アメリカをはじめ、海外のトレイルレースを数多く経験してきた弘樹さんならではのコース設計なのだろう、と。

弘樹さんが「トレイルエルドラゴン」として走る部族とレースをした様子が書かれているランナーの聖書「ボーントゥラン」

 

もちろん、それも間違いではない。しかし、実際のコースづくりを見て、その認識は大きく変わった。
信越五岳が走りやすいのは、ただ「走りやすい山が選ばれているから」ではなかった。まず、選手が楽しんで走れるルートを考える。そのうえで、迷わないようにする。危険な場所を減らす。
夜でも進む方向が分かるようにする。自然を傷つけずに通れるようにする。


倒木を除去しておくことは選手のコース外への立ち入りを防ぐことに

そうした膨大な手間を積み重ね、「走れるコースにつくり上げている」のだ。

2009年に始まった信越五岳トレイルランニングレースは、
現在、100mileと110kmの二つのカテゴリーを持つ、国内を代表する大規模なトレイルランニングレースの一つである。

この距離の大会を、安全に、分かりやすく、そして選手が心から楽しめる形で成立させる。
その裏側にある仕事の量は、外から想像するよりもはるかに大きい。

160kmに、約1000本の矢印

今回、最も驚いたことの一つが、コースマーキングだった。

トレイルランニングレースでは、木の枝などに結ばれた、
ひらひらしたビニールテープ状のマーキングを見かけることが多い。

ところが信越五岳では、それを全く使わない。

コースを示すのは、矢印看板である。


画面中央にも看板が確認できる、もやの中でも迷わないように。

弘樹さんは以前、環境への負荷やゴミを減らすためにマーキングテープを使わず、
その代わりに1000本近い矢印の杭が必要になる、と説明している。

約160km
100mileカテゴリーの距離
約1000本
コース上に設置する矢印看板
約160m
単純計算した1本あたりの平均間隔

もちろん、看板は均等に置かれているわけではない。

一本道なら間隔は広くなる。一方で、分岐や、選手がほんの一瞬でも迷いそうな場所では、短い間隔で次の看板を置く。
必要なら、間違って進みそうな方向にも「こちらではない」と分かる工夫を加える。

「ここなら分かるだろう」ではない。

「疲れ切ったランナーが、夜中にここへ来ても迷わないか」

その目線で、一本一本を置いていく。
弘樹さんと一緒に作業する中で、私は何度も感じた。


作業は雨でも夜でも関係なく続く

この大会は、ランナーに余計な判断をさせないようにつくられている。

一瞬の「ん?」をなくす

トレイルを走っていると、ほんの一瞬の迷いが生まれる。

「こっちで合っているかな」
「さっき、分岐があっただろうか」
「この道のまま進んでいいのか」

元気な昼間であれば、大したことではないかもしれない。

しかし、100km、160kmを走る選手は違う。時間とともに身体は疲労し、
補給がうまくいかなければ思考も鈍る。夜になれば眠気も重なる。

そして人は1日3万5000回も「決断」している、と言われている。
ウルトラエンデュランス競技に関する研究でも、長時間の運動と睡眠不足を伴う状況では、
注意力、反応時間、実行機能などの認知パフォーマンスが低下し得ることが示されている。

つまりレース後半ほど、普段なら簡単にできる判断が難しくなる可能性がある。

だからこそ、迷わせないこと自体が、安全対策になる。

分岐に一本、矢印を立てる。その先にも「この道で合っている」と確認できる一本を置く。
夜でも視認できる向きに調整する。間違って入りそうな場所を先回りして潰す。

一つ一つは、とても地味な作業だ。

けれど100mileという競技では、その地味な準備が、何十時間も後のランナーを助けることになる。

走りやすい。しかし、決して簡単ではない

信越五岳が「走りやすい」ということは、「簡単なコース」という意味ではない。

スキー場のゲレンデを一気に登り上げるようなパートもある。山中深くへ入り、
約6kmにわたって簡単にエスケープできない区間もある。雨が降れば路面も状況も変わり、夜間走行も長い。

そもそも100mile、約160kmという距離そのものが、決して生易しいものではない。

危険がないのではなく、存在する危険を見つけ、評価し、可能なものから一つずつ小さくしている。

自然環境への配慮も、その考え方の中にある。

少し横を歩けば簡単に通れそうな場所でも、それを何百人もの選手が繰り返せば植生は傷む。

だから必要な場所には、決められた場所を安全に通れるように橋を架けるなどの手を入れる。

人の安全だけを見るのでもない。自然保護だけを切り離して考えるのでもない。

山を守りながら、人を通す。

その両方を成立させようとする細やかな設計が、コースの随所にある。

石川弘樹さんがつくっているもの

信越五岳には、海外のトレイルレースから取り入れられた考え方がいくつもある。

ペーサー制度。家族や仲間が選手を支えるアシスタントポイント。
そして、長い旅そのものを参加者と地域、スタッフが一緒につくり上げていく空気。

弘樹さん自身も、大会をつくるにあたり、海外で経験した、
日本には当時まだなかったトレイルレースの面白さ、楽しみ方、走る難しさを取り入れたと語っている。

私は以前、「だから信越五岳はアメリカのレースのように走れるのだ」と思っていた。

しかし今回、感じたことはそれだけではない。

80km地点を走ってコースを確認する弘樹さん

石川弘樹さんが海外から持ち帰ったのは、コースの形だけではなく、

“ランナーを迎えるための大会づくり”そのものだったのではないか。

走らせる。楽しませる。迷わせない。そして、無事に帰ってきてもらう。

選手の目に映るレース当日の華やかさだけではなく、何週間も前から山へ入り、
汗をかき、草を刈り、道を整え、一本ずつ杭を打つ。信越五岳チームの仕事には、選手が気づかない場所にこそ、深い愛情と責任がある。

その積み重ねが、信越五岳というレースの信頼をつくっているのだと思う。

救護は、事故が起きてから始まるものではない

MEROSが大会救護に入るとき、AEDや医療資器材、搬送方法、無線、救助スタッフの配置などを考える。
もちろん、それらは欠かすことができない。

しかし今回、改めて思った。

救護は、傷病者が発生してから始まるものではない。

この分岐で迷わせない。この場所では転ばせない。
疲れて判断力が落ちた選手でも、できるだけ自然に正しい方向へ進めるようにする。
危険な場所に入らせない。自然を傷つけるラインに逸れさせない。

そのすべてが、事故が発生する前の「救護」である。

事故が起きたら、いかに早く助けるか。もちろん大切だ。

けれど、その一歩も二歩も前で、事故が起きる可能性そのものを減らしておく。

それこそが、MEROSの目指す安全管理であり、
私たちが掲げる「無事が、最高の成果だ。」という言葉にもつながっている。

なぜ、信越五岳には人が集まるのか

信越五岳の一般エントリーは、例年、募集開始後すぐに定員へ到達する。
選手だけではない。ボランティアも応募多数となり、早期に締め切られるほどだ。

走りたい人が多い大会は、ほかにもある。

しかし、「スタッフとしてでも、この大会に関わりたい」と思う人まで多い大会は、そう多くない。

その理由が、今回、少し分かった気がする。

1000本近い矢印の一本一本。何気なく渡っている小さな橋。走りやすく整えられた道。迷うことなく通過できた分岐。

選手からすれば、気づかずに通り過ぎるものばかりかもしれない。

しかし、その「気づかせない仕事」こそが、良い大会運営なのだと思う。

 

弘樹さんと仲間たちが切り拓いた道。少しでも車道を通さない工夫、事故防止や道迷い防止につながっている。

選手が迷わず走れたとき、その矢印の存在は忘れられる。
安全に橋を渡れたとき、そこに橋を架けた人の顔を知ることはない。

それでも信越五岳チームは、誰かが無事に通過する未来を想像しながら、一本ずつ矢印を立てていく。

石川弘樹さんを中心に、大会を長年支えてきたスタッフ、地域の皆さん、ボランティアの皆さん。
その仕事への敬意と信頼があるからこそ、人はまたこの場所へ戻りたくなるのではないだろうか。

MEROS × 信越五岳

今回、二日間にわたり弘樹さんとコースに入り、自分にとって大きな学びとなった。

これからMEROSとしてトレイルランニングレースの救護や山岳救助に携わる中で、
考えなければならないのは、「事故が起きたら、どう助けるか」だけではない。

その、もっと前。

どうすれば、事故そのものを減らせるのか。

救護計画。通信。マーシャル。コースマーキング。登山道整備。自然環境。選手心理。

すべては、つながっている。

100mile、約160km。

その長い道の先でランナーを守っているのは、派手な救助技術だけではない。


誰かが大会の何週間も前に山へ入り、
汗をかきながら打った、一本の矢印なのかもしれない。

「助けるための救護」から、
「事故を起こさないための救護」へ。

信越五岳で学んだことを、MEROSがこれから携わる大会へ持ち帰っていきたい。

信越五岳では私も微力ながらコース上で救助や救護が必要となた場合に備えて待機をさせて頂く。
出走の皆さん、完走を目指して力走する姿を応援させてもらいます!

参考資料

今回弘樹さんと私が着用して作業しているシェル、どんな雨でも水を通さなかったパタゴニアのトレントシェル3Lジャケット を紹介しておく。